『明日世界が壊れると知ったら,あなただったらどうする?』 翠は僕の前に立ち,僕の方向に体を向けながら言った.近くを見ているようで,それでいて宇宙のはてを見ようとしているようで,彼女の眼はまるで焦点が合っていなかった. 翠と出会ったのは4ヶ月ほど前,外国へと向かう船の上だった.はじめて出会ったとき,彼女はフリーズしてしまったパソコンのディスプレイのように止まっていた.忙しく動くたくさんの人たちの中で彼女は人形のようにじっと動かなかった.その様子が僕に妙な不安と期待を抱かせた. 僕は故障していないかを確かめるように彼女に話しかけた. 「こんにちは.おひとりですか?」 彼女は壊れてはいなかった.いや,壊れたのかもしれないと思うほどの勢いで言葉が飛んできたのだ.彼女の故障検査は3秒で終わり,そのあとに僕への精密検査が30分ほど続いた. どうやら彼女も僕も一人で,旅先でしゃべり相手を探していたようだった.他にも色々話をしたが,お互い気に入ったことがわかった後の会話は握手のような儀礼的なものにすぎなかった. すぐに僕らは一緒に旅をすることを決めた. 僕らの船は新しく出来た港へと向かっていた.その港へとつくまでの間,僕は彼女といろいろな話をした.どこで生まれ,どこで育ってきたのか.中学時代の部活の失敗談や恋愛の話.話は尽きることがなかった.やがて港について新しい町に入っても,いろいろなところを回りながら僕らは話し続けた. そして旅は3日で終わった. そしてまたすぐに船に乗り,次の旅に出た. 次の旅が終わってもすぐに3回目の旅に出かけた. 僕らは生まれてきてから今まで起きたことをすべて語るかのように話し続けた. 僕は仕事が嫌になり,やめたところだった.何もする気が起きず,次の仕事も探さないで毎日をごろごろと過ごしているときに友達に誘われ旅に出た.しかし出発してすぐに,友達の母が倒れてしまったという知らせが入った.友達は旅をキャンセルしすぐに帰ってしまった.僕は一人で旅を続けるのも悪くないと思い一人残ることにした. しかし船に乗ったら急に淋しくなってしまっていたのだった. 彼女はもう1年もこんな風に一人で旅を続けていた.僕はびっくりして理由を尋ねた.すると彼女はレストランで本日のお勧めのメニューを読み上げるように話をはじめた. 「家を出るときあたしは右足から出るの. 何があろうと絶対にね. あなたは」?  うーん,覚えてないなぁ.気にしたことはないよ. 「そう.そんなものよね. でもあたしは自分が右足から家を出ていることに気がついたの. 中学2年生の夏だった. それから家を出るときにはずっと気になっていて,ある日,ためしに左足から出てみたの. どうなったと思う?」 彼女はふざけたような口調で,それでいてポリゴンで描かれたような硬い顔をしながら僕に訊いた.僕が返事が出来ずに黙っていると僕の返事など待たずに彼女は話の続きを話しはじめた. 「その日は転んで腕を怪我したの. でもね,あたしは全然ジンクスなんて信じてなかったの. むしろ馬鹿にしていたのよ. だから次の日,確かめるためにまた左足から出たの. その日は弟が車に轢かれて死んでしまった. そのときはじめて世界にルールがあることを知ったの. 人には人それぞれのルールがある. だからあたしは右足から家を出るの.絶対にね. 私にはそういうルールがある. きっと私が知らなければいけないルールはほかにもある. それを知ることが必要なの. それを知るために旅を続けているのよ.」 翠は硬い顔面を崩さずにそこまで言うと,またフリーズしてしまった.僕はあまり理解できなかったので考えるのにはちょうどよかった. ともあれ,僕たちは最高のコンビだった.彼女は時折フリーズしてルールを探し,僕はそんな彼女を眺めながらいろいろ考えた.そんな旅の途中で出くわすどんな出来事も,すべてが僕たちの手がかりに思えた. そしてそんな日々が2ヶ月ほど続いたある日,僕は翠に結婚を申し込んだ. 「少し考えさせて」 と表情を変えずに彼女は言った. 「思いつきで言ったわけじゃないんだ.いや,思いついたというなら君と出会った瞬間から予感していたんだよ.この世界は僕が翠に出会うために出来たとさえ思ってるんだ.」 僕は彼女のわずらわしそうにも見える硬い顔面におびえながら言った. 「ごめんなさい,でも考える時間が欲しいの.」 #返事を待つ間,気が気でなかった. 冷静に考えれば僕は失業中だし,女性にプロポーズをしたのも初めてだった.それでも僕には自信があった.短い期間であっても僕らは濃密な時間を過ごし,僕らの間にはその中で勝ち得た信頼とルールがあったのだ. それだけに翠が考えさせてくれといったときにはびっくりしたのだ. 僕がプロポーズをした後,僕たちはまた新しい旅に出かけた.旅のあいだ,僕はずっと返事を待っていたが,彼女はそんなことはなかったかのようにしていた.相変わらず尖った硬い表情をしていた.そして少し長めの旅が終盤に差し掛かかり,僕がもうあきらめようと思い始めた頃, 「いいわ,結婚しましょう.私たちは最高のコンビですもの.」 と古いホテルのロビーで翠は言った. 僕たちはすぐにその町の教会に予約をし,数日後に結婚式を挙げた.出席者の中に僕や彼女の家族は誰もいなかった.教会の神父,お世話になったホテルのオーナー,そしてバーで知り合った数人の町の住人だけだった.それでも僕らは幸せだった.二人でどんな困難も乗り越えていける自信があったし,実際にそうだった. 結婚してから僕は色々考えるようになった.このまま働かず,ずっと旅を続けることは出来ないことは明らかだった.二人の貯金を合わせて,港に近い町に小さな家を買い,大きな犬を飼った.そして二人で小さなパン屋を始めることにした. 大好きな旅に出ることもしなくなった.僕は大人になったのだと思う. パン屋を始めるのは簡単なことだった. 職業訓練所にいってパン職人の能力を手に入れた. 知人から安くオーブンを譲ってもらった. 市場に原料を買いに行く. こねる. 焼く. それだけだ. すべてが順調だった.犬には子供が生まれ,毎日焼きたてのパンを買いに来てくれる固定客も少なからず出来た.僕たちは時間が許す限りずっと一緒にいた.そんな普通の幸せがずっと続くと思っていた. ところがある日,彼女が言った. 「明日世界が壊れたら,私はどうすればいいの?」 僕ははじめ,意味がわからなかった. 世界が壊れる? 世界は今までコンピューターのように正確に時間を刻んできたし,明日からもパンはプログラムされたかのように焼きあがっていくだろう.そこにはデジタルな幸せがあった.どのような環境であっても劣化しない,はっきりとした幸せがあったのだ. そんな世界が壊れるだって? 「大丈夫だ.この世界は壊れない.壊れるわけがないじゃないか.明日は正確にやってくる.だから明日の心配なんかする必要なんてないんだよ.」 僕は自信たっぷりに根拠のない台詞を読み上げていた. しかし彼女の心配は現実のものとなった. 世界が壊れたのだ. ただし,“僕の”ではなく“彼女の”世界が. その日,彼女を何度チャットで呼びかけても返事はなかった. ログインしていないようだった.おかしい,彼女はいつもこの時間にはログインしているはずだった.はやく二人で小麦粉をこねなければパン屋の開店に間に合わない. 僕は店を開くことも出来ず,ただ毎日を能力値アップをしながら過ごした. 一週間後,彼女からメールが届いた. 急にログインできなくなってごめんなさい. あの日,私の世界が壊れてしまったの. 母親が私のPCを捨ててしまい,プロバイダーの契約も勝手に打ち切られてしまった. あのゲームの世界であなたと暮らしていて,このままずっと暮らしていけると思った.